主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。詩編 / 37編 3節
だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。マタイによる福音書 / 6章 9節
今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」出エジプト記 / 19章 5-6節
† 先週のメッセージ † 民のかしらを立てる(出エジプト記 18:7~12)
モーセがアマレクとの闘う時、山に登り、手を上げて祈ると、イスラエルが優勢になり、手を降ろすと、アマレクが優勢になった。これは、闘いの勝敗を左右するのは、山の下にあるのではなく、山の上で捧げる祈りの故です。
争いと戦いは、神様に属しています。この肉体的な戦いだけではなく、クリスチャンは霊的闘いにも、霊的武装をします。エペソ6章『神のすべての武具をとりなさい。』6:18 『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』 そうです。神様に祈ることなしでは、勝利出来ません。祈りは、戦争そのものです。
アマレクとの闘いが終わった時、モーセに嬉しい訪問者がいました。それは、しゅうと、ミデヤンの祭司イテロとモーセの妻チッポラとそのふたりの息子を連れて行った。二人の子どもの名前は、モーセの人生を現します。ゲルショムは「私は外国にいる寄留者だ。」という意味で、もうひとりの名はエリエゼル。それは「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた。」という意味である。
ところで、イテロが訪問した理由は、神様が、モーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、すなわち、どのようにして主がイスラエルをエジプトから連れ出されたかを聞くためであった。そしてイテロは言った。(10-11)「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。実に彼らがこの民に対して不遜であったということにおいても。」イテロはイスラエルの民を救う神様を賛美し、共に礼拝した。そして、モーセが困っていた問題で、イテロはリーダーを選び、役割を与えるようにした。その人は民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立たせた。イスラエルの国が成長していくのです。 私たちにおいても、このように千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長の役割が出来る信仰者になっていくべきです。