Posted on 07/28/2013 at 01:13, by α

聖なる民となる

† 先週のメッセージ †
聖なる民となる  (出エジプト記 22:20~24)

神様が、イスラエルの民に律法を与えたのは、400年の間、エジプトの奴隷だったイスラエルの民が、自ら判断し、決定し、責任を取る、自由人とするためでした。それは、聖なる民になることです。

22章は、十戒の8番目の「盗むな」という戒めに対する適用です。神様は決して、人のものを盗むことを軽視しておりません。聖書では、盗むことを、ふとした出来心、偶発的な行動、瞬間的な衝動として見ていません。長い期間の中で、その人の価値観が間違って形成された結果として見ています。
今日も、広い範囲で巧妙な方法で行われています。

新約聖書では、『盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。』(エペソ4:28)と、キリストの中で変えられた人の新しい生き方を要求します。出エジプト記22:1では、『牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。』と、他人のものが自分のものより4倍5倍の価値があると教えています。もし賠償出来なければ、奴隷になって払わなければなりません。
出エジプトした200万人を超えるイスラエル民に、このようなことが頻繁に起きたと考えられます。そこで、盗むことに故意性があるか、計画性があるかを見て判断します。しかし、長い間、間違って形成された価値観が、罪を犯しています。

キリストによって新しくなったクリスチャンは、イエス・キリストから学び、『…まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』(エペソ 4:20-24)

恵みの時代を生きる私たちにとって、律法は必要でしょうか。律法は、救いの道には、なりません。ただ、救いは、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、可能です。しかし、律法は、私たちが①キリストの救いの御わざを理解するために、必要不可欠なものです。②また、神様と契約された民としての生活の規範として存続します。神様の聖なる民として、守るべき戒めです。

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