Posted on 05/23/2010 at 15:05, by webby

2010年5月23日 先週のメッセージ要約

覆い被せてやる者の祝福(創世記9:18-29)

聖書は清い人だけの話ではありません。人は道徳的で、知性的で、人格的で立派に見えても、いつも罪を犯せます。これが人間の本質です。ローマ書3章10-12節には。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」と言います。

ノアさえも過ちを犯します。ノアがぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていたのです。ところでこの過ちに対して、ノアの3人の息子の反応がありました。まず 、カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げたと言います。ヘブライ語の「ラ-ハ」の「見て」というのは偶然に過ぎて行く時に見たというのではなく、待って観察したということです。そして、「告げた」というのは心配したからではなく、意図的にしたことです。ハムは父ノアの過ちを待ったように人に言い告げたのであります。そして、セムとヤペテはその話を聞いた時、早速、着物を取って、ふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおったのです。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかったのです。

父の恥を覆ったことです。ここで「肩に掛け」と言う言葉はヘブライ文化からは奉仕と仕える時の言葉です。契約の箱を運ぶ時も肩に掛けることで、そして、救い主イエス・キリストが私たちの罪と咎を赦すために、見代わりになって十字架を肩に掛けって歩いて下さったことです。

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